010:夢
子供の頃はどうしようもない妄想を真剣に信じる事が出来た。
例えば、鶏は誰も見てないところでは飛ぶのだとか。
例えば、いつも傍には見えない友達が居るのだとか。
あるいは、この現実は長い長い長い冬眠中の誰かの夢だった、とか。
子供の私にとって現実と言う物は、とても不安定で、とても不確かなものだったのだ。
子供の私ならば、それでも良かった。別に困ることなど無い。
しかし、時の流れは私を大人に変え、私に確固たる現実を知らせた。
鶏は飛ばないし、見えないものは存在しない。
当たり前の事。当たり前の現実。大人たちは当たり前を好む。
割り切ってしまえば、これほど楽なことは無い。確かな物ほど安心できる物はない。
けれど、私はたまにふと思う。
鶏が飛んだという絶対的な証拠が無いように、鶏は絶対に飛ばないという保障も無い。
そして、ある日、人々は思い知るのだ。
現実の絶対が崩れた日に。
現実という夢を見ていた神様が長い長い眠りから目覚めた日に。
011:英雄
かつて彼は言った。
「俺は英雄になりたいんじゃない」
拳を握り締めて、淡々と言う彼に僕はただ頷くことしか出来なかった。組織の頂点に立つ彼がまっすぐと見つめる先を、下っ端の僕が分かろうはずなどない。
圧倒的力を掲げ、その力を悪に染めることなく己の信念のままに突き進む。それが彼だ。その頃の僕はただ上を向いて、彼の背中を見ているだけで精一杯だった。だが、不思議なことに僕は彼に対して憧れや尊敬は抱いてはいなかった。天の上の人を見るように、ただ遠い人だという感想のみが強く残っている。
「英雄は過去の者でしかない。過ぎ去った功績の中で生きるしかない。それが英雄だ。俺は英雄になりたくはない」
名も知らぬ下っ端の僕に、彼は思いつめたように静かに吐露したのだった。
しばしば、友人のオグマが話していたものだ。
「あの人は確かに強い。いろんな意味でね。だが、同時に何かが欠けてる」
安い酒の入ったグラスを傾けながら、友人はそう評していた。何が欠けているのか、オグマにはそれが分かっていたようだが、決して口に出すことはなかった。ただ同情のような憐れみに彩られた笑みを浮かべるだけだ。
「世の中上手くいかないものさ」
友人は肩をすくめ、力なく笑う。
そして、現在(いま)。
かの人は英雄になった。戦いを終えると同時に彼は最前線から退き、自身の言っていた通り過去の人となった。
力しか持たない彼を現在は必要としなかったのだ。
――そして。
奇しくも代わりに現在が必要としたのは、友人のオグマだった。
彼は戦いを終えると同時に頂点に立った。力を持たない彼をのし上げたのは皆を惹きつけ先を明るく照らすその先見性だった。
その後オグマが英雄になりえるのか。
それは、彼のみが知る事だ。
012:砂漠の水
男が一人ぽつねんと砂漠を歩いていた。
一歩一歩少しでも前へと進む足取りは、しかし、すでに力ない。靴の中にはたっぷりと砂が入り込み、いっそ裸足になれたら楽なのだろうが、砂は焼けるように熱くとても素足で歩ける温度ではない。口の中はカラカラに渇き、息をするたびに水分など欠片も含まない熱気が喉に入り込んで、さらに渇きを呼び寄せる。
果てしない砂に埋もれた大地。目印も道もなく、たださまよい歩くしかない。
ジリジリとした日照りが続き、大気はゆらゆらと揺れる。
皺を寄せた額に、とっくに果てたと思っていた汗が滲み出る。太陽はいたって容赦なく、男から一滴残らず水を絞り出すつもりらしい。
男の中には、すでに苦行による辛さ以外に何も残っていなかった。ただここで果てたくなかったら、歩くしかない。
「そうサ、これこそが砂漠ダロ?」
そして、男は不意にかけられた言葉に目を丸くした。
突如それはケラケラと声を立てながら、男の前に現れた。大きな目で男を覗き込みながら、それは笑っていた。
男とも女ともつかぬ、黒い肌をした子供だった。黒い肌を薄地の布で包み、金色に光る装飾品で飾り立てている。奇妙ななりだ。
たとえるなら、そう、古い物語に登場するランプに閉じ込められた魔人のような――。
「お前、何だ?」
男がかすれた声で問うと、魔人は音もなく顔が触れる程近づけてきた。男の顔面に黒が広がり、一瞬後に白い物が覗く。歯だ。魔人は大きく口を開け笑い声を立てていた。
「アッハッハ。知らないよ、そんなコト。それとも、お前は自分がナンなのか答えられるってのカ?」
男から答えはなかった。歪んだ笑顔をそのままに、魔人は肩すくめる。
「マ、他人には砂漠の水って呼ばれてるけど」
「どういう意味だ」
文字通り喉から手が出るほど欲する物を意味する単語を聞いて、男の顔は僅かに気色ばむ。
魔人は見下すような笑みを浮かべた。
「そのままの意味さ。……砂漠の水だよ!」
その言葉を吐いた瞬間、魔人は溶けた=B
色をなくし、形をなくし、一瞬にして溶け去った。
魔人はボタボタと地面に滴り落ち、そこに水溜りを作ることなく、次々と砂にしみこんでいく。
男は呆然とするしかない。
それが、本当に存在していたものなのか、それとも、疲れ果てた自分が見た夢だったのか、男には分からなかった。