004:霧深い都市
 深い不快。
 霧が肌をまとわりつき、じんめりとぬらす。それは霧深いという段階をとうに超えている。
 眼前にシルクの布を広げたような、いや、広がっているだけならまだいい。ずっしりと重さを持って、体に絡み付いているようだ。
 重い足取りを引き釣り、私は歩く。
 もうどれくらい歩いているだろうか。十分か、一時間か、あるいは、丸一日か。時間の感覚が分からない。今まで私に時を教えてくれていた腕に巻きついた時計は、偶然か、はたまた必然か、この街に入った時に止まってしまった。
 行く手のつい一メートル先はもう真っ白に阻まれて、何があるのか分からない。
 ベールの向こうに時折見えるものは、いつも古びた煉瓦の壁。足元もこれまた褐色の煉瓦できれいに舗装している。少なくとも人が住んでいないわけではない。
 だが、一度も人の気配を感じなかった。
 はたと、立ち止まる。
 もしかしたら、この街は時が止まっているのかも知れない。
 私は、針を寸とも動かそうとしない腕時計を眺めながら思った。

005:呪い
 ぞろり。
 瞬間、とんでもない何かを感じた。
 全身を駆け巡る悪寒を追うようにして、彼の体に紋様が這う。紋様は黒さを噴き出しながら、大きく成長していく。
 黒に体を蝕まれる。力が食い尽くされる。
 広げた拳もまるで墨へと変化するように黒々と染まり始めていた。
 何だ、これは。
 彼は緋色に燃え上がった瞳を術者に向けた。術者はごく冷静に彼を見返していた。
 まだ子供だ。こんな状況に落ちていなければ、おおよそ彼に敵うとは思わない鼻で笑ってしまうような少年だ。
 冷淡さえ感じさせる笑みを少年は浮かべている。少年の笑みにしては、なんと冷酷なことか。
「悪しき者に呪いを――」
 歪んだ薄い唇が動き、その隙間からつむがれた声は平坦だ。
 呪いは依然男を蝕み続ける。
 このままでは、いづれ尽き果てるだろう。
 それは、いかん。
 この少年をこのまま残して行くのはあまりに危険だ。
「少年よ」
 男は少年の目前に立ち、静かに見下ろす。
 男の影は大きく、少年をまるまる飲み込んでしまった。
 少年は初めてたじろいだように見えた。
 やはり、どんなにいきがって見せたところで所詮は子供なのだ。
 本当の恐怖を知らない。未熟な子供なのだ。
「お前に土産をくれてやろう。冥土の土産だ。心して受け取れ、そして、学ぶが良い」
 男はすっかり黒くなってしまった拳を少年の額に乗せた。
 拳の下で少年がひるんだ。
「やめ――」
 少年は静止の言葉を放ったが、時はすでに遅い。
 力が突き抜ける。
 男は残りの力の全てを注ぎこみ、少年に呪いをかけた。

006:切れない絆
 そんな物は、所詮形だけに過ぎない。
 それは、私も、そして彼女も分かっていたはずだ。

 思い出すのは、目を刺すような白。
 しんと静まり返った白磁の壁に囲まれた空間。
 膝を折り深々と頭をたれた私となんの表情もなくただ立つだけの彼女。
 私が彼女に初めて出会った――私が彼女の護衛を任されたその日から、私と彼女との間には絆があった。
 主従という、ひどく細く薄い形だけの絆だ。
 私は決して彼女に護衛の騎士という与えられた役割以上の態度を示したことはなかったし、また、彼女も決して私に心を開くことはなかった。
 私はとても優秀な従者だった。
 だから、私は最後まで優秀な従者でいるつもりだった。
 たとえ、この身を犠牲にしたとしてもだ。
 なのに。
「そんな事は許しません」
 彼女はきっぱりと憮然とした態度を隠そうともせず、そう言う。
 日夜感情を押し殺し、決して相手に身の内を悟らせない彼女としては、ひどく珍しいことだった。
 敵はすでに表門を突破したという情報が舞い込み、今しもこの部屋に踏み込んでこようかという状況。それは彼女も分かっているはずだ。
 私は隠し切れない焦りを無理矢理押し込め、平坦な調子を崩すことなく、先と同じ事をもう一度言う。
「ここは私に任せてお逃げください」
「駄目です」
 彼女は引き下がらない。
「命令です。あなたも一緒に逃げるのです」
 決して意思を曲げる事がなかったまっすぐな瞳で、しかし、私を一瞥もする事なくきっぱりと言い下す。
 命令です。
 長い間、私と彼女の絆をつないできた言葉。
 ――貴女がその言葉を使うのならば、私にも策がある。
「ならば、私と貴女の契約も今日限り。今、この時を持って、私は貴女と縁を切ります」
 彼女は初めて私の方を見た。驚嘆に大きくその瞳を見開いて見せた。
 その大きな緋色は、いつかに彼女からもらった木苺の酸っぱさを私に思い出させる。
 私は目を閉じた。すっぽりと手に馴染む腰の剣に手を置くと、心が落ち着く。
 私は彼女にゆっくりと言い聞かせた。
「貴女は逃げるのです。そして、私が居た事など忘れてしまいなさい」
 目を開けると、まっすぐに私を睨みあげる彼女の顔があった。
 鮮烈で気高く美しく、彼女の顔は私の瞳にくっきりと焼き付けられる。
 首筋に薄く鋭い金属が当てられる気配があった。

「この絆、切らせない」
 ナイフは微かに震えていた。


015:主従につながります。